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2017年2月23日 (木)

ジョジョの奇妙なパクリ問題 PART2 【黄金の道・前編】

「ジョジョの奇妙なパクリ問題」のブログ記事をここに挙げたのはもう6年近く前の話なんですが、未だにアクセスやコメントが続いており、自ブログ内ランキングでもずっとTOPの座を維持している様子です。(まあ、殆ど更新してないってのもありますが)

前回も書いた筈ですが、この記事は元ネタの存在を知る事でパクリだ!と騒ぐ糾弾目的ではなく、オマージュの意味合いや位置付け、その時代背景等を元に「トレースでなくても人物の顔や背景、服を変えても構図が同じだったらトレースと同じ著作権侵害」とした意見に対しての反論として書き始めたものです。この意見に関しては今も「否」と考えてます。

コメント欄でも頂いてましたが、創作物のアイデアそのものに著作権は存在しません。企画をパクる事と演出・表現をパクる事は全くの別物。パクると云うイメージの悪い言葉を使う事で妙なバイアスかかる可能性は、反省しなければならない前回のポイントの1つです。論点の勘違いも若干見えた気もいたします。

と云う訳で、様々なご意見も頂き、一知半解は承知の上、あれこれまた著作権関連の本を読み返してみたうえで、「自分なりの拙い考えを、もう一度拙いなりに整理してまとめてみようか」ってのが今回の主旨です。何でもかんでも似通ってさえいればパクリガー!シンジャガー!と騒ぐ人らへの、キミらそれちょっと違うんじゃね?と云う意思表示でもあります。

それではまたかなり長くなる予定ですし、ジョジョは契機に過ぎず話が広範囲に広がるとは思いますが、興味のある方はお読み頂ければ幸いです。

〇そもそもパクリとは?
 
まず根幹であるここから行きますか。
 
パクリと云う言葉の語源は(諸説ありますが)、食べ物を食べる擬態語「ぱっくり・ぱくり」から来たと考えられ、警察が犯人を逮捕する行為をそれ(ぱくりと食べる)になぞらえた警察内部の隠語が広まったと考えられています。
 
やがて言葉が伝播し広範化していく途中で意味の独り歩きが始まり、「捕まえる」が「モノや内容を捕まえる(盗む)」に逆転していった可能性。
 
そこから派生し物理的な窃盗だけではなく、模倣・複製・盗用などにまでその言葉と意味合いまで次第に当てはめるようになっていったのではないかと考えられますが、ただ「盗む」の他に「持ってくる」意味合いまでをもそこに含めてしまった為「持ってくる」行為にすら同様の負のイメージが付随されるバイアスが掛かってしまったとは思っています。
 
勿論、「盗用」としての「パクリ」にはそのような付託は関係なく、著作権の侵害である事は間違いないのですが、剽窃も盗用も引用も参考も憧憬も、全部ひっくるめて問答無用で「パクリ」と呼称、或いは認識するってのはある種の思考停止でもあり、これはパクリと云う言葉自体が暴走しながら独り歩きしてしまっている状態ともいえます。

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パクリとは9を借りて1を自分で作るような(または10を全部借りたような)あからさまな物の事であって、1を借りて9を自分で肉付けするような場合、それは既にオリジナルと言い切れるんじゃないかと私などは考えますが(それはそれで今度は「その割合が幾つまでならOKなんだよ!」とか言い出す人もいそうだけど)、「盗用・剽窃」等とそれ以外、それをまずここで明確にしておく必要があるのです。
(時代背景、事後法の概念については以降のブロックにて後述します)

この「パクリ」については古くからネット上でも様々な議論が交わされており、以下のようなテンプレートも見受けられます。

「オマージュ」
過去の名作に尊敬の意味を込めて、敢えて部分的に演出・表現を似せる技法
ex)カウボーイビバップOP
 
「リスペクト」
過去の名作に尊敬の意味を込めて、対抗・意識してオリジナルスト−リーを創作する行為
ex)ブラックジャックによろしく
 
「パスティーシュ」
過去の名作を下敷きにオリジナルストーリーを創作する行為
ex)コミックマスターJ
 
「パロディ」
有名作品を部分的に面白おかしく表現・演出する行為
ex)かってに改蔵
 
「インスパイア」
有名作品を著作権者の同意の下、元ネタを再構成して作品をつくる行為
ex)グラスハート
 
「モチーフ」
創作のアイデアを他作品・歴史等に求めて作品をつくる行為
ex)るろうに剣心
 
「モジリ」
作品に登場するキャラ等の名詞をわざと他作品から持ってくる行為
ex)ジョジョの奇妙な冒険
 
「カバー」
既存の作品を独自の解釈でリメイク(もとは音楽用語)
ex)ガンダムオリジン
 
「王道」
そのジャンルの作品を円満に進行していくにあたって避けて通るのが難しいネタ
ex)スポーツ漫画のサヨナラ勝ち
 
「かぶりネタ」
偶然にもアイデアが被る事(ありふれてる事が多い)映画の影響で多数でネタが被ることも
ex)マトリクスねた
 
「孫引き」
過去の名作をリスペクトした作品をさらに第三者がリスペクトする行為
ex)ラーゼフォン
 
「二番煎じ」
商業的な事情で自分(自社)の過去のヒット作に似た作品をつくる行為
ex)ガンダムSEED
 
「劣化コピー」
商業的な事情でヒット中の作品に似た作品を作る(作らせる)行為
ex)レイブ
 
この他にも
トレース、アレンジ、本歌取り、複製、翻案、真似、参考、要約、引用、そして剽窃、盗用など様々な名称の行為が十把一絡げに「パクリ」と称されているようで、要するに少しでも似てさえいればパクリ扱いする人が多数湧いて出てきたのが昨今の現状です。
 
※パクリ指摘が、唯一「無名な」自分が「著名な」制作者に対し「対等に切り込める隙間」だと思い込む稚拙なマウンティング理論なのかもしれませんが。
 
ここで以前の記事のコメントにも書いたとり・みき氏の定義を再記しますが、「元ネタがバレなかったら困るのがパロディ、元ネタを知って欲しいのがオマージュ、元ネタがバレたら困るのがパクリ」の基本ラインに異論を感じる方は少ないと思います。(と云うか思いたい)
 
例えば10年ほど前に「第19回ホラーM 新人まんが大賞」期待賞を受賞した「恨み晴らさでおくものか」と云う応募作品が、朝日ソノラマ発行・伊藤潤二の「なめくじ少女」に酷似していると判断され受賞を取り消される事態がありました。

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これはもう見て頂ければ一目瞭然ですが、伊藤潤二氏の作品を自分の絵柄で焼き直しただけのものです。似ているとか似ていないのレベルではありません。「既存作と非常に似ている」との認識がありながら(本当に認識あったかどうかまでは知りませんが)審査を通してしまった編集部の落ち度はともかく、これが「元ネタがバレたら困るのがパクリ」の典型的な例です。

他人の作品を下絵としてイラストや漫画を作成する事は複製権の問題とは別に、著作権・著作者人格権の侵害も生じる恐れがありますが、この件に関しては、アイデアやオマージュどうこうではなく、構成やコマ割りを含めた作品全体が既存作の模倣であるとの指摘を掲載後に受け、最終的に編集部はこれを盗用であると判断し受賞を取り消した訳です。(ホラー漫画誌の編集なら伊藤潤二は必読じゃねえの?とは思いますが)

この作者に悪意(或いは楽をして受賞しようとする怠慢・名声欲・承認願望)があったのかまでは判りませんが、無断で権利を持つ他人の「労力」を不当に吸い上げる、質・量ともにその盗用が作品の大部分の骨格を占めている、2点からこの例が悪い意味でのパクリ、悪質な盗用そのものとなる訳です。本来、パクリ指摘されるものとはこう云うものでした。

ただし、他人の著作物を参考にして作品を作る場合、結果的に両作品を比較して違いがあり、独自の創作的表現であれば著作権の侵害にはならないと考えられているのもまた著作権の現実ではあります。

〇アイデアに著作権は無い
 
「著作権はまず権利者が訴えて初めて裁判になる親告罪であって、裁判で有罪が確定して初めて合法ではないと定まるものである」って認識はここ数年で多くの方に浸透していると思うのですが(思いたいのですが)、まず権利に無関係な第三者がこれを司法に訴える事は出来ません。可能なのはあくまで権利を持った当事者のみです。

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「こうやったらこうなるよ」「著作権法に違反してる・してない」ってのは、実は解釈として今の裁判でやるとそう云う司法判断が下される可能性が非常に高いよってだけの話です。逆に予想もしていなかった主張をしてそれが認められ、裁判所を説得できれば今度はそれが新しい判例になる訳。
 
じゃあ裁判にさえ訴えられなければ、有罪と認められなければ何をしてもいいのか!とか言い出す人も出そうなので一応書きますけど、そんな事はありません。
 
ただね、グレーゾーンが余りにも多くて最初から明確な線引きなんて出来ないんです。
確か、最高裁までいった裁判だと「マッドアマノパロディ裁判」と「赤瀬川原平の千円札事件」くらいだと記憶してます。後者は通貨及証券模造取締法ですが。
(キャンディ・キャンディ事件は後述)

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ジェームス・W・ヤングと云うアメリカの広告マンが書いた「アイデアの作り方」と云う本があります。これは広告業界の古典教科書みたいなもので私も持ってました。1940年代の本です。この本では「アイデアとは何か?」の問いかけをしてますが「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何物でもない」と明快に定義しています。

また「既存の要素を新しい組み合わせに導く才能は、物事の関連性を見つけ出す才能に依存するところが大きい」とも。この本で語られるアイデア作成の基本原理はこの2つです。

広告作成と物語作成を同列に取り扱うべきではないと考える方も勿論いらっしゃるでしょうが、「ものを作る」と云う行為において汎用できる最低限シンプルな原理ではないかと私などは考えます。

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ジョジョにおいて前記事でも触れたような「パクリ指摘」が、果たして裁判で著作権法違反と認定されるかどうか素人の私には確たる判断はつきませんが「アイデアそのものに著作権は存在しない」と云う事実(著作権法2条1項1号)は必ず頭に入れておかなければならない項目でもあります。
 
※著作権法2条1項1号によれば、著作物とは「表現したもの」を指すのであり、 アイデア自体は著作物ではないので保護の対象外です。保護されるのはあくまで「表現」であって「アイデア」そのものではありません。
 
アイデアそのものの流用は著作権とは関係が無いのです。著作権は絵そのものや構図など、目に見える表現に対するものです。なお、著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」(著作権法2条1項1号)となります。
 
更に長くなりますが例を幾つか挙げて検証してみましょう。
 
「ロミオとジュリエット」、「ルチア」、「ウエストサイドストーリー」はそれぞれが別個に独立した最上級の著作物である事に疑問を持つ方はまず存在しないと思いますが、「互いに憎悪を持つ2つの家の若い男性と女性が恋に落ち、両家の対立故に悲しい結末に終わる」というストーリーに着目し、仮にこれを「表現」に属するものと考えてその共通性を強調すれば、「ルチア」は「ロミオとジュリエット」の盗作つまり著作権(翻案権)侵害になる可能性が生じます。
 
更にストーリーを抽象化し、「互いに憎悪を持つ2つの組織に各々属する若い男性と女性が恋に落ちたが、両組織の対立故に悲しい結末に終わる」というストーリー展開のみに着目して、こちらもまた「表現」に属するものと仮定しその共通性を強調すれば、「ウエストサイドストーリー」は「ルチア」や「ロミオとジュリエット」の盗作つまり著作権(翻案権)侵害である事にすらなりかねない。
 
これは、アメリカの法学校でよく用いられる「教室設例」らしいですが、要するに、「表現」は抽象化すればするほど「アイデア」に近付く場合があるので、その両者の線をどこで引くのかということは実際には困難な問題である、と云う事です。

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「パクリ」とは、盗作が親告罪である事を良いことに不必要なまでに他作品からネタを頂戴する行為である、とする方もいらっしゃいましたが、この辺のボーダーライン判断を何処に設定するかで、前段で記したような「区分け」を全てパクリであると言い出す人が出てしまうのかもしれません。

そして、ここで一番混乱を招く原因が「オマージュ」なのだと思います。

〇ではオマージュとは?
 
ジョジョのこのシーンが手塚治虫「どろろ」のパクリと云う指摘がありましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。

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これはどろろを読んだ事がある人はすぐにピンとくる類のものなのですが、ここでパクリだと指摘されている点は「我が子を生かす為に手が爛れるのを覚悟で熱い粥を直接掌に注ぐ」と云う行為表現です。コマ割りや設定、絵柄や台詞、レイアウトの問題ではありません。

オマージュ(仏:homage)とは、「尊敬」「敬意」「臣従の誓い」などを意味するフランス語でリスペクト(尊敬)と愛をもって捧げられる事、とあります。前段のテンプレートに準じれば「過去の名作に尊敬の意味をこめて、敢えて部分的にエピソード演出・表現を似せる技法」

かつて荒木飛呂彦がどろろを読んでいたであろう事は描写の酷似から予想がつきます。いや100歩譲って担当編集が読んでいたでも良いですけど。ただこのシークエンスは互いにストーリーの肝でもなく、母親の無償の愛を示す過程としての1つの描写。

母親の無償の愛を表現する「アイテム」として自分がかつて感銘を受けたシーンのアイデアを、尊敬や賛辞の念を込めて作中に登場させればそれはオマージュと言えますが、ただ尊敬や賛辞の念をもってそれを描いたかどうかまでは第三者である私たちには分かりません。

あえて言うのならば、読んだ人が「あ、どろろのあのシーンだな」とすぐに想起できるような描き方を選んでいる、と云うスタイルからそれを類推するのみ。

「元ネタがバレなかったら困るのがパロディ、元ネタを知って欲しいのがオマージュ、元ネタがバレたら困るのがパクリ」に沿うのならば、これは原典がバレないと(知っていて貰わないと、或いは知らないのならば知って欲しいと)困る類のものだとは思います。

ただ引用先の作者がオマージュだと思っていても、引用元の作者が盗作だと感じる場合もあって、「オマージュでありながら盗作である」という状況が起こり得るのもまた事実。これはそれぞれの主観による違いでしかないので、第三者が「これはオマージュであって盗作ではない」とか、「盗作だからオマージュにはならない」などと議論するのはあまり意味がない事だとも言えます。(だから司法判断がある)

作者は映画好きでもあって、古今東西の映画からも様々な演出を引用してます(あえてパクるとは書きません)。この辺は挙げていくとかなりの量になり、映画好きならば元ネタが判ってニヤッとするものが多いですが、どれもその演出が作品(物語)としてのジョジョの骨格を占めているものではありません。

例えばアレッシーのこれなんて

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モロにシャイニングな訳で。

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その他にも

ポーカーでわざと相手の名前を間違えて怒りを誘う→「スティング

ジョセフvsダービーの戦い→「さらば友よ」

ワンチェンの腕を土中から掴むディオ→ 「キャリー」

怪人ドゥービー→ 「エレファントマン」

エリナの背後から無数の手が襲いかかる→「死霊のえじき」

ワムウとの戦車戦→「ベン・ハー」

サンタナの柱を発見するシーン→「エイリアン」

シュトロハイム初登場シーン→「アンタッチャブル」

タワーオブグレイの血文字→「アンタッチャブル」

ストレングスの幽霊船→「ゴースト血のシャワー」

ストレングスにシャワー室で襲われる少女→「サイコ」

エボニーデビルの描写→「チャイルドプレイ」「エクソシスト」

カーズを宇宙に放逐→「エイリアン」

カエルが降ってくる→「マグノリア」

ジャッジメントの甦った死者(親族)の凶暴化→「ペットセメタリー」

ホイールオブフォーチュンの追跡→「激突!」「クリスティーン」

イギー登場シーン→「K-9 友情に輝く星」

ポルナレフの煙草芸→「ヘルレイザー」

花京院のレロレロレロ→「ビッグ」

夢の中で攻撃するデス13→「エルム街の悪夢」

音で感知し砂煙あげて追ってくるゲブ神→「トレマーズ」

第5部のラストシーン→「ゴッドファーザー」

監禁する山岸由花子→「ミザリー」

背中を下にして階段を昇る露伴→「エクソシスト」

顔を変え子持ちの女性と暮らすが息子に怪しまれる吉良→「ステップファーザー3」

バイツァダストの時間ループ→「恋はデジャヴ」

3つしか覚えられないジェイルハウスロック→「メメント」

SBRの大統領のハンカチエピソード→「パルプフィクション」「ディアハンター」

平行世界を行き来するD4C→「プレステージ」

賭け事に臓器を使うマリリン・マンソン→「Xファイル:賭博」

凶暴化させるサバイバー→「Xファイル:血液」

カビで殺すグリーンディ→「Xファイル:カビ」

近々死ぬ者の姿を石で表すローリングストーンズ→「Xファイル:休息」

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このエボニーデビルの描写、記憶の中では「バーニング」と被ってたんですが、改めて見直すとシルエットと逆光、ハサミと剃刀の違いがあって、記憶ってのは曖昧だなと痛感。

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まあそれはともかく、まだまだ書き切れないほど沢山の映画からの演出引用がジョジョには散りばめられており、映画好きなら思わずニヤリとする場面が多い。観てない映画だと観たくなる気分にもなります。

この辺は荒木飛呂彦自身によるテキスト「荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」「荒木飛呂彦の超偏愛!映画の掟」(共に集英社新書)から読み取れる様に、過分に映画愛(主にホラーやサスペンス)を作者が持っている事は判ります。

※「カエルが大量に降ってくる」はマグノリアからって云う意見もありましたけど、これ元々空から大量のカエル(或いは魚)が降った不可思議な記録が古今東西大量にあり、古くは1世紀ローマの博物学者プリーニの言まで遡れる「謂わば知ってる人なら誰でも知ってる」系のお話であって、マグノリアはそこに端を発してるだけですけどね。

ちなみに手元資料だと1973年9月24日付「ザ・タイムズ」紙、1922年9月5日付「デイリーニューズ」紙などに空から大量に魚やカエル等が降ってきた旨の記事が掲載されてます。

またジョジョの前に連載されていた同じ作者の「バオー来訪者」のラストのコマのセリフは原作ファイヤースターター(炎の少女チャーリー)と同じですし、作中には様々な映画タイトルが小物に描かれてたりもします。私の大好きな映画「ストリート・オブ・ファイヤー」とかね。

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※ちなみにカプコン初期のゲーム「ファイナルファイト」に登場するコーディはこの「ストリート・オブ・ファイヤー」の主人公トム・コーディからそのまま名前と服装を持ってきてます。

またジョジョ2巻にもディオが手に持つ酒瓶に「CRONENBERG」「DEAD ZONE」のラベルが見受けられます。また映画ではないですが、パールジャムの能力は筒井康隆の小説「薬菜飯店」、アンジェロの手口はスティーブン・キングの短編「ミルクマン」、醜くなった山岸由花子の顔を見ないで済むよう(相手が気にしないよう)己の目を潰すのは谷崎潤一郎の「春琴抄」にも似通っています。

※作者自身が記した上記の書籍でも、二部のジョセフのモデルはインディアナ・ジョーンズ、三部の承太郎のモデルはダーティハリー等の記述はあります。

※ペットセメタリー自体の発想元ネタもW.W.ジェイコブズの「猿の手」と云う古い短編小説ではありますけどね。「猿の手」のシニカルさは本当好き。

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さて、これらの描写をオマージュと呼ぶのかパクリと呼ぶのか、については「先に書いた「オマージュでありながら盗作である」状態が起こり得る可能性から、「それを第三者が議論するのはあまり意味がない」わけですし、「無断で権利を持つ他人の「労力」を不当に吸い上げているかどうか、質・量ともにその盗用が作品の大部分の骨格を占めているかどうか」の判断を素人が行っても、これまた意味が無い訳です。

ちょっとゲームに目を転じてみると、2009年、DeNAがモバゲーで配信していた「釣りゲータウン2」がGREEの「釣りスタ」と似ていると云う理由で訴訟が起きました。一審は著作権侵害が認められ配信停止と損害賠償金の支払命令が出ましたが、二審では「具体的な表現が異なっている」として著作権侵害を認めない逆転判決が出ました。そして最高裁判決で原告側の上告を棄却する判決が出され原告側敗訴が確定、と云う事例があります。

この判決は「(具体的な表現ではない)コンテンツやアイデアのパクリはセーフ」という判例が出されたとも言え、ゲーム業界に一石を投じる結果にはなりました。

つまり

1、オマージュ(尊敬や賛辞の念)があったかどうかは本人にしか判らないし、類推するしかない

2、オマージュでありながら盗作になる可能性もある

3、だがアイデアそのものに著作権は存在しない

4、盗用されたと思しきシークエンスの「質・量」が作品の大部分の骨格を占めているかどうかが問題であり、それは訴訟後に司法判断して貰うしかない

5、著作権が親告罪である以上、元ネタ側がそれによって不利益を被ったと表明しない限り、また司法判断が出ない限り、それは違反ではない

6、著作権法上許容される「パクリ」と消費者観点から許容される「パクリ」とではその感覚にズレがあることもまた否定は出来ない

7、しかし読者側がその作品を気に入ってればオマージュ、気に入らなければパクリなどと云う単純稚拙な話ではない

8、原作をパロディ化したりもじった事が一見明白であり、かつ原作者の意を害さないと認められる場合には、同一性保持権の侵害には当たらない

9、著作権とは社会における創作活動が活発になることを促すために作られた法律であり文化破壊を目指すものではない

10、表現の保護とアイデアの保護を同一視するのは本末転倒

と云う感じでしょうか。

とある作品や作者に対して強い尊敬・敬意を持った人が、それらを仰ぎ賛辞を送る目的で別の作品に取り入れる場合、多くは影響を受けた作品の要素の引用を伴いますが、まったく引用や影響が見られない作品でも、その作家なりの尊敬の形として制作されたものがオマージュとして発表される場合もあります。これは「リスペクト」に意味が近い。

「~に捧ぐ」と云うような形で影響を受けた対象を明記することもありますが、明記せず気がついた人にだけ「ああ、あの作品から影響を受けたんだな」と思わせるような作り方をする場合もある。

例えば峰不二子が全裸にレザーツナギを着てバイクを駆る姿は、『あの胸にもういちど』のマリアンヌ・フェイスフルが元ネタでもあります。

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スタンドのメタリカは「ロォォォード」と哭きますが、これはスタンド名として流用されたバンド、メタリカのアルバムタイトル「LOAD」から来てるなんてのもそうですね。これも判る人にだけ判ってニヤッとして貰えば良い系。

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以前コメントにも書きましたが、浮世絵が欧州に渡りジャポニズムのムーヴメントを生んだように、創作物ってのは互いに影響し合って先へ進んでいく一面があります。

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ゴッホが歌川広重の模写をしたり、モネやドガがオリエンタリズム溢れる作品を描いたりとか。一時期の「ジャパニメーション」などと呼ばれるアニメ・コミック等の風潮も第二のジャポニズムと呼ぶ向きもあるようです。

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ただ大事な事はリスペクトやオマージュと単なるパクリの相違点を見る側、描く側双方がきちんと持つ事。単なるパクリってのは、創作の為の汗や血を流さず、楽して利益や名声のみ手に入れたいと云う思いに直結してると個人的には考えています。
 
創作物が互いに影響し合っていく部分と、その自己の作品への取り入れ方の手法を画一的にすべて並列判断するのはやはり浅薄なやり方だとは思います。そこには「オマージュとして通用する表現」、「オマージュではあるけれど引用元が盗用と感じる表現」、「オマージュの振りをした盗用・剽窃」の区別・区分けがありません。
 
※前のブログ記事で「人物の構図が同じだから著作権違反」と騒ぎ立てる人の話がありましたが、これも「トレース」と「構図が同じ」の意味を混同してしまっているだけともいえます。

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ただ、「荒木飛呂彦の漫画術」(集英社新書)にはこう記されています。

『僕の絵の特徴を一言で言えば「ポージング」ということになるのでしょうが、それはこのイタリア旅行で得たものでした。(中略)たまたまローマのボルゲーゼ美術館にある、有名なベルリーニの「アポロとダフネ」というバロック彫刻を見て、「ああ、これを漫画で描けたらいいなあ!」と思えたのです。(中略)この彫刻のようなねじれたポージングは日本の美術にはほとんどありませんし、これまでの漫画家があまり表現していないジャンルで、しかもいい意味での色気も出せる。それまでの修練で絵の基本はできていましたから、後は、イタリアで体験したことを取り込んで自分の世界を作っていけばいいわけです。こうして「これが自分の絵だ」というものをつかんでからは、編集者からアドバイスされて悩むということが格段に減りました』

欧州の優れた彫刻や絵画・イラストのねじれたポージングを漫画に取り入れると云う発想そのものは間違いなく荒木飛呂彦自身が見つけた「オリジナル」だと思います。これは手法・テクニックのお話。ただ発想を取り入れる事と、その大元の形(構図)を必要以上に模倣する事はこれもまた別なお話ではあります。ここが複雑。

話は少しずれますが、アメリカにおいては著作権はフェアユースの公理で判断する事も多いようです。正しく使われているかどうか。使用の目的及び性質、営利的性質、使用された量、市場価値・潜在的市場に対する使用の影響。ただフェアユースの抗弁はアメリカの裁判においてもかなり難しい判断とも言われてはいますが。

悪意と善意、搾取と商業の識別、フェアユースの判断が対立したら、もうお金で済ますラフジャスティスしか無いのですが、よほどの悪質さでない限り、それは創作物として互いに影響し合っていくものと認識され問題視されないのではと考えます。

〇ではオリジナルとは?
 
今後すべての創作物はそのすべての要素においてオリジナルでなければならぬ、としたなら、創作行為はどんどん尻すぼみになりやがて力を失い、先細りの袋小路に入り消滅するでしょう。創作は互いに影響し合って前へ進んでいく原理があるからです。なので、すべてオリジナルでなければならぬ、とする考え方は創作活動を活発にする為に制定された著作権法の趣旨に実は全くそぐわない。著作権法は悪質な剽窃を防止する為のものであって、四角四面に管理するのが一義目的ではないからです。

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※この辺、日本の音楽における現在のJASRAC問題なども想起できます。

こんな話もあります。

スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」の制作準備段階、初稿のシナリオでは人類の祖先に叡智を与える宇宙人が登場する設定になっていた為、この宇宙人の視覚化を1年の間、試行錯誤して世界中の画家・イラストレイターに「これまで見た事がない生き物を描いてくれ」と依頼しましたが、誰一人としてそれを為し得なかったそうです。今、存在する既存の生き物の寄せ集め・キメラにしかならなかった。だからキューブリックはそれを生物として視覚化する事を諦め、モノリスにしてしまったのだと。

キューブリックは「想像もつかないものは、想像すら出来ないって事が分かった」との発言を残しています。厳密にオリジナルを追及していこうと思えば、必ずそう云う処にぶつかるので既成のイメージを借りるしかありません。

つまり「完全なオリジナル」は存在しない。見た事も聞いた事もないものってのは理解できないと云うコミュニケーション論の話に切り替わってしまいます。

現実的に考えれば、現在のオリジナルと云うのはまだ誰も見た事がない「イメージ同士の組み合わせ」であるともいえます。ただ、元のイメージの権利は保護されるべきであって、そこに何かプラスアルファしていくのがパロディであったり創作であったりするとも考えるのです。

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「新しいブドウ酒は新しい革袋に」はマタイの福音書に記された有名な言葉ですが、かつて寺沢武一はコブラ単行本に「SF、それは、新しいピンにいれた古いブドウ酒なのさ。そして、それは「アーサー王」や「アリス」の不思議の泉からわきでたものなんだ。」とのコメントを残しています。

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この言葉は物語そのものがもつ「原理」を非常に良く表しているように思えてなりません。優れた物語の骨子は手を変え品を変え、永く語り継がれるものです。作品そのもののコピーではなく、骨子を取り入れる事により、最大公約数を積み重ねてゆっくりと王道へ近付こうとするかのような。繰り返しますが作品そのもののコピーは論外ですよ。

そうして、その中からまた新しい表現が生まれていく。そうした作品が100生まれたら、99はゴミかもしれないけど、1つは面白いものが生まれてくる。その中からまた優れた骨子が抜き出され取り入れられる、その連鎖によって技術も発想もどんどん洗練されていく訳です。しかしまたこれも法とは別問題の発想ではあります。

創作性があって著作物と認められるか否かの問題と、そう云う作品が原作品の著作権を侵害しているかどうかはまた別のお話なのです。

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「公正な慣行」を裁判の過程で具体的な例に添って求めていくのが法律です。そして法律とは元々「現実の後ろ」を歩いていくもので、そうじゃないと現実に沿わず困る事態が発生するので、新しい事件が起きた際にその都度、新しい状況に応じた「その時代」の判断をする為に、わざと文脈を曖昧にしてあると云う部分が存在するのです。

だらだらと書き綴ってみましたが、このオマージュとオリジナル、そして「パクリ」について総括すると以下のような事ではないかと考えます。

 
●著作権法違反と云うのは、原著作者が盗用と感じ、かつそれによって不利益が生じた等の理由で訴え、司法判断が下ったのちに、初めて盗用と認定されるものである。
 
●原著作者が黙認、または意を害さないとする場合にはそもそも違反と云う概念が発生しない。(親告罪なので第三者の意見はまるで関係がない)
 
●創作物は互いに影響しあっていく側面があるので、流用されているものの量・質により判断される。(これをがんじがらめにすると創作活動そのものが衰退する)
 
●読者・観客側が「これはパクリだ」と思うのは自由だが、それはあくまで一般レベルの「感想」の域を越えない。
 
●「パクリ」と云う言葉が独り歩きして、流用や参考、オマージュ等まで括ってしまっている現状は浅薄であり、作る側見る側双方の意識改革も今後更に必要とされる。
 
てな感じでしょうか。また近年、著作権法に関する認知度合いが上がっている事も影響しているのではないかとも考えられます。
 
「法律とは弱者が強者をそれに服従させ抑える為に造ったものである」は哲学者プラトンが「ゴルギアス」の中で残している説諭ではありますが、この場合の「弱者」とは少なくとも読者や観客ではないですね。
 
次は「事後法」と云う概念について考えてみます。
 
〇時代背景と事後法の概念

昔の漫画を眺めると、参考として他者の写真や出版物などを無断で素材として使う事例は慣例上かなり多く、水木しげる御大の昔の作品などにもそれはよく見られます。

>姑獲鳥の元になった彫刻

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>要石(『世界美術全集2 古代初期』より、メソポタミア・エアンナトゥムの石)

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>ユッカー「呼吸する釘のオブジェ」

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絵画にしろ写真にしろ、それをそのまま模写して載せてしまうのは現在の法律上ほぼアウトであろうと予測されますが(確定と書かないのは、それが裁判によって結実されていないから)、それらの表現が漫画の表現史としても1つの流れになっていたのもまた事実です。

>地獄の風景(リュシアン・クート―「塔の近くの風景」)

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>吸血木(エルンスト・フックス「ベツヘレムの星」)

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※水木しげる御大の元ネタ紹介についてはこちらのサイトが詳しい。

※かわぐちかいじの「沈黙の艦隊」でも同じように潜水艦や空母などの写真のトレースを行い、その写真集の著作権をもつカメラマンから訴えられて全面謝罪と賠償金支払で決着しています。

※写真のトレース問題だと「昆虫交尾図鑑」の件などもある。(これもまた後述)

手塚治虫の初期名作「メトロポリス」にもミッキーマウスによく似たキャラクターが登場します。その名も「ミキマウス・ウォルトディズニーニ」(そのまんま 笑)

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かつてディズニーの映画「ライオンキング」が手塚治虫「ジャングル大帝」のパクリではないか?と云う疑念が評された事がありました。抗議の気運が高まるなか、手塚プロ社長は「天国の手塚治虫も、ディスニーに影響を与えたことに光栄に思うだろう」とする声明を発表、ディズニーに対しなんら法的行動を取らない事を意思表示しました。

これは、問題視し事を大きくする事で(ライオンキングが著作権侵害だと立証しようとする事で)、逆に今度はメトロポリスなど初期の手塚作品が訴えられる可能性があったから、とする見解もあります。

仮にライオンキングが「パクリ作品」と司法の場で立証できたとしても、同様に手塚作品「メトロポリス」もディズニー側の著作権を侵害しているとされたら、最悪そのどちらの作品も「封印」されてしまい、後世に残る事が不可能となります。

著作権と作品の価値がぶつかった時、歴史的に重要な名作が出せなくなるのは、文化的な損失となり、文化を守る事を一義とする著作権の本意が見出せなくなってしまう事を恐れた「大人の判断」であったかもしれないと云う事。

余談ですが、ウォルト・ディズニーが権利関係に異常なほどうるさかったのは、その端緒で彼が被った経験から来ているとの説が有力です。

事業に失敗したディズニーが僅かの現金とカバンを手にカンザスからハリウッドに出てきたのが1923年のこと。貧しいながらも廃材でスタジオを作り上げNYの配給業者マーガレット・ウインクラーと組んで「アリス・コメディー」などの作品を世に出し始めます。

このマーガレットがチャールズ・ミンツと云う男性と結婚してから雲行きがおかしくなり、1926年にユニバーサル映画から「ウサギを主人公にしたシリーズ映画が欲しい」と持ち掛けられたミンツが妻を経由しディズニーに作らせたのが「オズワルド・ラッキーラビット」、これが大ヒットし、ミンツはディズニーに無断・無許可で各種商品にそのイラストを使用しましたが、まだ著作権に無頓着だった兄のロイ・ディズニーからも「宣伝になるから」と言われ、何も要求しなかったそうです。

1928年の契約更新の席でミンツから「今後は激安出血価格でオズワルド・ラッキーラビットのアニメを作り続けるか、私の会社にお前の会社を乗っ取らせるか、そのどちらかを選べ」と迫られます。「キミの従業員は全て私に寝返ってる」とも。

ディズニーはどちらの条件も飲めず、結局オズワルド・ラッキーラビットの著作権を泣く泣く手放すしかありませんでした。失意の中、ハリウッドに戻る汽車のなかで彼とその妻の前に1匹のネズミが現れ、それが後のミッキーマウスのモデルになったとも伝えられてます。ミッキーはメガヒットし、オズワルドの展開は以降潰れていく事となります。

(画像掲載は少々リスキーなので)検索して頂ければ分かりますが、デザインはミッキーマウスの原型だと云う事が分かります。これがディズニーが権利関係に厳しくなった原因ではないかと。

※ちなみに2006年ユニバーサルからウォルト・ディズニー・カンパニーに諸権利すべてが返還されました。

法的には明らかに問題があると思われるけども、漫画のなかで1つの実績として表現の価値を構築していった面は漫画業界には確実にありました。これは元々、漫画と云う表現システムが多種多様なものを組み合わせて出来上がってきた「大衆芸能」としての歴史とも繋がっていく訳です。

そしてこういった昔の事例に関し、基本的に「事後法」と云う概念が適用されます。

事後法とは、実行のときには適法だった(或いはその法が無かった)行為について、のちに制定された法律、すなわち事後法(ex post facto law)によって遡って処罰することが出来ないと云う原則。日本国憲法第39条【遡及処罰の禁止、一事不再理】でも禁止されており、法の不遡及とも呼ばれる近代刑法における原則です。

実行時の罰則より重い罰則を定め処罰する事、実行時に違法とされていたが罰則がなかった場合に後から罰則を定めて処罰する事、 なども禁止されています。

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最初の著作権法は、1899年(明治32年)のベルグ条約加盟に基づき制定されたもので、現在は「旧著作権法」と呼ばれています。現行の著作権法はこれを1970年(昭和45年)に全面改訂して制定されたものです。

かつて、映画をそのままモチーフにして漫画化したような作品は幾つもありました。しかし現在、それは出版物として正規の流通ルートでは出せない状況となっています。その作者の作品展会場の物販コーナーなどでのみ千部とか2千部の取り扱いレベル。

当時はそれが著作権を侵害するなんて考え方は出版社にすらなかった時代だからです。映画会社ですら映画の宣伝になるから喜んで使ってくれと云う状態。良く言えばおおらか、悪くいえば大雑把な時代の残滓でもあります。

現行の著作権法が昭和45年(1970年)に全面改訂されて現在に至っている訳なので、法的に時系列としてそれ以前に発表された作品については遡って処罰される事はありません。

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ゲゲゲの鬼太郎は様々なモチーフを作中に登場させていますが、最初の鬼太郎は他者が描いた紙芝居「ハカバキタロー(墓場奇太郎)」を作者承諾のうえ、出版社の依頼で描いたオリジナルの紙芝居『蛇人』『空手鬼太郎』『ガロア』『幽霊の手』が原典とされています。これが1954年の話。

その後60年代に貸本で鬼太郎を描き、1965年 週刊少年マガジンに読み切り掲載、1967年連載開始、1968年に最初のアニメ化となります。

この段階でもまだ著作権法全面改訂前であるため、原作の内容表現に関して現行の著作権法は一切関与しません。(それが良いとか悪いとかではなく、そう云う時代に描かれたものであると云う事です)

とはいえ当時も流用元になった原著作者から水木しげるへクレームが来ていた事例もあります。水木妖怪キャラとしても抜群の存在感を示すバックベアード。

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水木しげる「墓場の鬼太郎 妖怪大戦争」1966年

これは以下の内藤正敏のコラージュ写真を原型として創作されたもので、作者がそれに不快感を示していた旨の記述は残っています。並べると分かり易いですかね。

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内藤正敏「新宿幻景・キメラ」(コラージュ写真)1964年

写真家、内藤正敏が1989年発行の雑誌『日本学』巻頭「表紙のことば」に記載した内容は以下の通り。

「水木しげるが、私の「キメラ」を盗作して、妖怪「マチコミ」を書き、「ゲゲゲの鬼太郎」にも登場させ、お菓子のキャラクター・イラストにも使用したため、水木の盗作の方が世に横行することになった。」

ただ、この内藤正敏のコラージュ写真も更に発想の元ネタがあったようで、それに該当すると言われたのが下記の19世紀末の画家オディロン・ルドンの作品群です。「Eye-Balloon」は1878年発表。ルドンの作品は他の水木妖怪にも影響してます。

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ルドンの作品とそれに影響を受けて描かれたらしき妖怪たち。

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夏目房之介は「かつての漫画は、こういう知見を広めるためのものでもあって、元ネタを知ってても読者側にパクリという意識はなかった」と発言しています。

では、昭和45年(1970年)以降に描かれた作品はすべて著作権法の管理下にあるのか?と聞かれれた場合、額面通りに考えれば管理下にあると言えます。

ただ、漫画の制作現場や出版社は現在に至るまで「慣習」で動いてきた側面があって、法律と現場の齟齬・乖離、意識のズレが今まであったのもこれもまた事実。親告罪であると云う性質や、出版社そのものが著作権に関して適切な理解をしないまま、動いてきた経緯はあるでしょうね。

元々、著作権と云うものは「版権」からスタートしている事も影響しています。これらは出版社が自社の本のコピー商品を他社に作られないようにする為の権利(規制)であった訳で、その出版社の権利が、やがて書いた人を守る権利になり、文章だけでなく絵や音楽や美術品なども加わって現在の形になったのが著作権です。

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漫画に関しても勿論、著作権が機能する訳ですが、いかんせん大問題になった事がその歴史上ほとんど無かった事(ある意味では「お互い様」で何でもアリのおおらかな世界)が、現在騒がれている「パクリ」指摘にも繋がっているような気がしています。

「文化」としての下地にもなったパワフル(粗暴)な「黎明期」ならではの現象ですが、現在は「変革期」として各出版社やその編集がこれら表現についての著作権に関しても、その素養を深めつつある段階だと考えます。

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ジョジョの「パクリ」だと指摘されている部分も、盗用に近い流用もあれば純粋なオマージュ、インスパイアもあり、これを一括りにして作品全体をすべて「パクリ」だと断定するのは、漫画黎明期の粗暴さと何ら変わりのない乱雑な考え方だとも思います。
 
少なくとも、それを描いた時期には、作者も編集者も出版社も、それが著作権に抵触する可能性がある事を深く考察してはいなかっただろうし、読者側の大半も気にしてはいなかったのだから。(気にしてる人が現在のようにネットで視覚化されなかった、ってのもありますが)
 
どうしても許せない・気に障ると云う方は、ブライアン・デ・パルマなりヒッチコックなり、梶原一騎なり(その権利継承者)に「こんな感じで演出が流用されてますよ!いいんですか?」とご自分で連絡を取ってみるのも良いかもしれません。
 
相手がそれを著作権侵害だと考えて訴訟し、司法判断が出れば著作権違反になりますので溜飲が下がるかもしれませんよ。逆に黙殺されれば、相手がそれを侵害だとは考えていない事にも繋がりますが。
 
〇創作物の連関性とは?
ストーリーとしての「ジョジョの奇妙な冒険」自体は作者・荒木飛呂彦のオリジナルである事に疑いを挟む人はまずいないでしょう。その物語(主)と演出(従)の関係性・パーセンテージを考慮したうえで、今後も愛されていって欲しいと思う作品ですし、仮に何処かしら違法な部分があるのだとしたら、かつてのタロットカードデザインの様に謝罪・修正したうえで後世に残していって欲しいと考えます。著作権の本質ってのはそこですから。

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世界中に知られている葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」と云う名作版画があります。その波の描写のダイナミックさは見る者に今でも衝撃を与える素晴らしい作品ですが、この波の描写手法に実は元ネタがあると言われています。

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初代「波の伊八」(武志伊八郎信由)による行元寺欄間彫刻 「波に宝珠」がそれです。タイムラグでいえばこれは「神奈川沖浪裏」が描かれた20年以上前に彫られたもの。これにインスパイアを受けた北斎が自分の作品にもその表現を取り入れたと言われています。

かつて米ライフ誌において過去1000年の世界の文明に大きな影響を与えた人物100選と云う企画が掲載された事がありましたが、ダ・ヴィンチ、ニュートン、ベートーヴェンなどと並び日本人としては唯一、葛飾北斎がそこにランクインしています。

富嶽三十六景はヨーロッパの絵師や音楽家に大きな衝撃を与え、ゴッホ、モネ、ゴーギャンなどの印象派の画家たちに強い影響をもたらした理由からでしょう。作曲家ドビュッシーは「神奈川沖浪裏」を見た事で得たインスピレーションを基に「交響曲ラ・メール」を作曲したと語ってもいます。

富嶽三十六景は多くのヨーロッパの芸術家たちの心を鷲掴みにし、以後の作品にも影響を与えました。その大元が「波に宝珠」の彫刻であるならば、これがオマージュ或いは本歌取りの一番分かり易い例かもしれません。互いに影響しあって、更に上を目指していくと云う創作の持つエネルギーの在り方を示してもいます。

ゴッホやモネ等が感銘を受け、その新たな創作エネルギーの基盤となったのが北斎の「神奈川沖浪裏」であるのならば、そのベースを成したのは間違いなく波の伊八の彫刻です。

著作権も情報網もへったくれもない時代、己が受けた衝撃を形に表し、更に多くの人にそれを伝えていこうと意識すれば、それを自己の作品の中に取り込んで再生産(リピートではない)するしか方法はありません。繰り返しますが、それが良いとか悪いとかの話ではありません。結果として、更に多くの優れた創作物を生み出す契機ともなった事を否定する事は誰にも出来ないでしょう。

創作物、或いはクリエイターの創作性は互いに連関性を持ってます。その骨子が換骨奪胎になるか、羊頭狗肉になるか、それらを擦り合わせたうえで更に優れた創作物となるかは、現時点の1ポイントだけを見て分かるものではない。

なので互いに影響し合い、その連鎖の中でずば抜けた発想が生まれ、そしてまたそれが互いに影響し合っていく流れこそが、創作と云うフィールドにおける「黄金の道」なのではないかと思うのです。

そしてその創造性の「黄金の道」を辿ったものだけが、その後に連なる優れた作品を牽引していた事実で初めてそれを示すのです。

無論、そこには悪質な盗用・剽窃などが介在してくる可能性もあるでしょう。だから、そういったものとそうでないものを区別・判断する目安として著作権法が存在する意味もあるのです。けして一部の方の溜飲を下げる為のものではありません。

ジョジョが「黄金の道」に属している漫画なのかどうか私には断言できません。ただ、これだけ長い期間、多くの人に愛され、影響を与えていた事を考えると、この作品が単なる「パクリの集合体」でしかない、などとする稚拙な考え方に私は与する事は出来ません。それを贔屓の引き倒しと呼んでも構わないですが、パクリ指摘によるマウンティングで良い気持ちになろうとするよりは遥かにマシかなとも。

それ以前の問題として、仮にジョジョが本当にパクリの集合体でしかない様な作品であったとするならば、ここまで人気を持続する事も出来ず、もっと早い段階で淘汰され消えていたと思いますよ。

ただ「パクリだ!」と指摘する事も、このダラダラと無駄に長い私の記述も、そのどちらもが「個人の感想」でしかないと云う意味では何の違いもありません。

正式に問題化し専門家や司法によって判断が下されていない以上、濃いグレー、薄いグレー、ホワイト、ブラックが混在しているのが現状です。それでも尚「似ているからパクリだ!著作権侵害だ!だって俺がそう決めた!」と騒ぐのならば、最低限本当にそうなのか理屈や法や歴史をもう一度自分で考え、調べたうえで発言しませんか?と云う問いかけが今回の記事の根本です。

悪質な盗用・剽窃は権利の保護の観点からも裁かれなければなりませんが、目的と手段が入れ代わってしまうと、それは文化保護ヅラしながらやっている事は紛れもない文化破壊、と云う救いようがない愚行にもなってしまいます。(売れて支持されている人を一方的にこき下ろすのが楽しいと云う哀しい人はもう論外ですね)

これが極限までいくと、ジョジョは東方のパクリ、とかジョジョはハンター×ハンターのパクリ、などの発表時系列すら無視した(本人達はネタのつもりで遊んでるだけなんだろうけど)「天然のおかしな人」にしか見えない人らまでが便乗して暴れ出し、収拾がつかなくなります。

さて、次は著作権そのものについて根本的な部分からもう一度詰めてみたいと思います。あとトレース問題にもちょっと触れてみたいのですが既にかなりの文字量。一旦ここで切り上げ後編へと続けさせてください。

ここまで読み進めて頂いた酔狂で奇特(危篤)な方、有難うございました。ではまた後編で。

【参考資料】

「マンガと著作権」/青林工藝社/米沢嘉博・編

「どこまでOK?迷ったときのネット著作権ハンドブック」/翔泳社/中村俊

「著作権と編集者・出版者」/日本エディタースクール出版部/豊田きいち

「クリエイターのための知的財産権ルールブック」/グラフィック社/凸版印刷知的財産権研究会

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コメント

 ネタ元からしたら海の向こうで知らない日本人が勝手にアイデアや構図を盗用してることすら知らないから著作権い方もくそもないでしょうね。
 でも大事なのはその部分ではないと思います。犯罪にならないからOKなのかを批判してる側は言ってるのではないと思います。
 信者に何を言われたのかは知りませんが、著作権の違法ではなく、映画・漫画(特に集英社以外)・ファッションからの盗用(自分でアレンジするのはわずかか、もしくはストリーをほぼそのまま使用)してる事を言ってるのではと思います。少なくとも私はそうですし、いくつかの映画を見ましたがオマージュやパロディなどという生易しいものではありませんでした。一部分だけの使用ならわかりますが1つの話で丸々使うのはパクリですよ。

投稿: | 2017年5月14日 (日) 21:47

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